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2024.09.09|CEOコラム

写真は「真実を写す」ものだった… ~CEOコラム[もっと光を]vol.239

 今から43年前の9月、港区芝大門にある日本赤十字社の本社ビルに足を踏み入れました。会計士試験に合格して採用された監査法人の東京本社が入居していたからです。そして、今、自宅の近くに京都第二赤十字病院があり、昨年には京都府支部も近隣に移転してきました。そのようなご縁のある日本赤十字社ですが、何よりも身内に医療従事者がいるということもあって、僅かながらの寄付を続けています。

 

 どれほどの役に立っているのか分かりませんが、寄付者宛に会員誌「Cross com-BOOK」が送られてきます。従来は各支部ごとに対応していた情報発信を一本化して「会員誌を通じて皆さまから寄せられたご寄付がどのように社会課題の解決につながったのか、ていねいに説明させていただきたいと考えております」と創刊の趣旨が述べられていました。先日、その第7号が届いたのですが、そこで紹介されていた1枚の写真に目が止まりました。

 

「土門拳《赤十字看護婦 担架》1938年」とあるとおりで、それ以上の何の説明も要らないと思いますが、そこにある凜と張り詰めた空気が彼女たちの次のアクションを予感させるのに十分な構図によって写し出されています。「いい写真というものは、写したのではなく、写ったのである」という土門氏の言葉通り、「見事な瞬間」が切り取られていると言ってもよいでしょう。日本赤十字社のサイトでは紹介されていませんが、この写真に続く1枚には、彼女たちが4人一組になって担架を持ち上げ、少し前傾姿勢で一歩を踏み出す姿が写っています。そこには間違いなく「命を救い護る」姿があるのです。

 

 この写真が撮られた1938年当時は、言うまでもなく銀塩写真しかありませんでした。レンズを通った「光」が感光フィルムを化学変化させ、それを現像することで画像が得られるという仕組みですが、可視光線以外には反応しないことから、文字通り「真実を写す」のが写真だったのです。しかし、急速なデジタル技術の進化によって、写真と言えばデジタル、デジタルと言えば加工が当たり前になりました。最新のスマホでは、写り込んだ邪魔なものは消し、背景も自由自在に変えられるというのですから、もはや写真は「真実を写す」ものではなくなりました。1枚の写真に感動することなど、もう二度とないのかもしれません…

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