1991年5月14日、今から31年前のこの日、依頼された金沢での税務セミナーに向けて早朝に京都を発ちました。往路は時間が読めるJRの特急を利用しましたが、復路は高速バスでゆっくり帰ろうと思い、夕刻に香林坊のバスセンターから京都行きの京阪バスに乗りました。乗車すると車内に設置されたテレビから列車事故の様子を伝える報道特別番組が流れていました。滋賀県の信楽高原鉄道で同社の上り普通列車とJR西日本の下り臨時快速列車が正面衝突したというのです。
思わずテレビの画面を凝視したのですが、リポーターが伝える現場の惨状に目を疑いました。列車の運行に関しては若干の知識を持ち合わせていますが、単線区間における正面衝突事故など想定外の出来事です。単線区間では、隣り合う駅の間を閉塞して、その閉塞区間には一つの列車しか進入できないことになっているからです。従来はタブレットと称する通行手形を持った列車しか閉塞区間に進入できませんでしたから、このタブレットが一つである限り衝突などするはずがないのです。その後、タブレットは信号機による閉塞に進化して消滅しましたが、閉塞の考え方に変わるところはありません。
ところが、この事故では信楽高原鉄道とJR西日本の間で閉塞信号機の改修に関する情報が共有できておらず、そのために発生した信号トラブルに十分な対応ができないまま事故当日を迎えたというのです。そして、信号トラブルによる列車遅延を懸念した信楽高原鉄道の運行管理者が、こともあろうに赤信号で列車を進行させる(これを鉄道用語では「信号冒進」といいます)という致命的なミスを犯した結果、列車同士が正面衝突し、乗客乗員650余名の死傷者を出す大惨事になりました。
上り普通列車には祖父母に手を引かれた2歳の幼児が乗車していて犠牲になったと聞き、同い年の子を持つ親として不憫でなりませんでした。あれから31年が経ち、2歳だった我が子が親になり、その子が今年2歳になりました。2歳の孫の手を引きながら、交通機関に求められるものは安全がすべてであり、事故の再発防止を誓うことこそが犠牲になった人達へのレクイエムになるのだと改めて痛感します。そして、この事故から学ぶべき教訓は、「情報の共有」と「ルールの遵守」に尽きるのですが、それがまたもや疎かにされた観光船事故で3歳の女の子が犠牲になったことに心が痛みます。