ただ今、2冊の書物の校正作業が同時進行中です。1冊は社内で「相続本」と称する相続と相続税に関する解説本で、既に3回の改訂を経て四訂版の校正作業が佳境を迎えています。8月末の上梓に向けて新たなタイトルも決まりましたが、その発表は書店でご覧いただくまでのお楽しみということで…(笑)。もう1冊は、昨今流行りの中小企業のデジタル化を推進する内容の小冊子で、こちらも8月末の完成に向けて鋭意作業を進めつつあるところです。
このように、本業の傍らで執筆にも取り組み、いわゆる「物書き」の端くれを任じているのですが、過日その物書きとして心に留めておくべき指摘に触れる機会がありました。批評家である若松英輔氏の『悲しみの秘儀』の中の次の一節です。
-作品は作者のものではない。書き終わった地点から書き手の手を離れてゆく。言葉は書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する-
さて、自分は「読まれることによって結実する」ような言葉を紡げているのだろうかと自問したとき、実務書の世界には馴染まないのではないかなどと胸の中で呟きつつも、答えは心許ないと言うほかはありません。文章力とかレトリックとか一人前の講釈を垂れながら、同書の書き出しにある次の一文にはハッと気付かされるものがありました。
-涙は、必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある-
当たり前のことではあっても、読み手に訴えかけるような言葉、つまり読まれることによって結実する言葉とは何かについて考えさせられました。また、同書の中で引用されている古今和歌集には胸を詰まらせました。
-なく涙 雨とふらなむ わたり河 水まさりなは かへりくるかに-(巻十六「哀傷歌」)
泣く涙が雨のように三途の川に降り注いで水かさを増し、亡くなった人が渡れなくなって、こちらの世界へ帰ってくればよいのにと詠っているのです。今から千年以上も昔に生きた人が詠んだ秀歌に、紡がれる言葉の重みを改めて教えられたような気がします。